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この海野 清き流れに白鳥は あとたれそめて 幾世へにけん   海野幸氏

 

 

白鳥神社は、平安時代にこの地に鎮座していたことは、明らかである。それは、「源平盛衰記」に記される木曽義仲挙兵のくだりによる。義仲は、治承五年(一一八一年)海野氏を中心に白鳥河原で兵を挙げた。この白鳥こそ白鳥大明神である。これが史書の初出であるが、白鳥神社の創建が、いつであるかは、明確ではない。しかし、海野の地は、奈良時代に海野郷と称し、この地から献上された品が、正倉院御物として残っている。

そんな事からも、白鳥神社の創建は、奈良から平安にかけてと推測できる。

 白鳥神社は、日本武尊・貞元親王・善淵王・海野広道公の四柱を御祭神として祀っている。

 日本武尊は、第十二代景行天皇の第二皇子で、西征・東征と奔走された。この東征の帰り道に海野にご滞在になったと伝えられている。その後、日本武尊は、伊勢の国でお亡くなりになり、白い鳥に化身される。海野にもこの白い鳥が舞い降りる。そこで、

海野の民は、お宮を建て、日本武尊を祀った。そして、仲哀天皇の二年、勅命により、白鳥大明神と御贈号されたと伝えられている。

 貞元親王(さだやすしんのう)は、第五十六代清和天皇の第四皇子で、眼病を患い祢津の山の湯で養生され、白鳥大明神で祈願され、平癒されたと伝えられている。

 海野広道公は、海野氏の初代である。

 このように、白鳥神社は、日本武尊と海野氏の祖をお祀りしているお宮である。その後、海野氏の子孫である真田氏により、篤く尊崇を受けることとなった。そして、真田家が松代へ移封となり、白鳥大明神を松代へ分社し、安政五年、海野神社と改称している。

 時代は移り、明治十三年、郷社に列格し白鳥神社と改称している。

 鎮守白鳥神社に守られている海野宿は、寛永二年(一六二五年)に北国街道の宿駅として開設された。北国街道は、佐渡で採れた金の輸送や、北陸の諸大名が参勤交代で通った道であり、江戸との交通も頻繁で善光寺への参詣客も多かった。この地域の交通の要衝であった海野宿は、たいへんな賑わいを呈した。

 明治時代に入り宿場の機能は失われてきたが、海野は、宿場時代の広い部屋を利用して、養蚕・蚕種業で復興した。この養蚕最盛期の明治・大正時代の蚕室造りは、江戸時代の旅篭造りと良く調和して、現在まで残されてきた。

 そして、昭和六十一年に「日本の道百選」・続いて昭和六十二年には、「重要伝統的建造物群保存地区」の選定をうけた。

御祭神

日本武尊 貞元親王 善淵王 海野広道公

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